オーナー紹介
教室を選ぶ際にどんな先生がいてどんな事を教えてもらえるのかってとても大切ですよね。
こちらでは、私の略歴を書き綴ってみたいと思います。
この辺に住んでいました。近くの野川でよく遊んでいました。
水泳部の部長やサッカー部のゴールキーパーで頑張っていました。先輩(1年生の時に6年生でした)の宮澤ミシェルさんにサッカーを教わったり、母がコーチをしていたCACで水泳を習ったりしていました。
現在は二人の子供たちが長作小学校に通っています。
2年生の時に生徒会副会長、3年生では生徒会長を務めました。
サッカーはディフェンスにポジションチェンジしました。
卒業時の成績はちょうど真ん中くらいで残念ながら東大を狙えるポジションではありませんでした。(同期は7人に1人が東大生!(*_*;)
サッカーは千葉県大会ベスト8でした。
この時期にパソコンと出会います。最初のパソコンはシャープのX1turboで、この影響からシャープに入って「使って楽しいパソコンを開発しよう!」と志すことになります。
友人達とは卒業後も仲良くさせていただいていて、教室の運営にもいろいろとサポートをいただいています。
大学受験失敗は人生初めての挫折でした。当時はあちこちで「千葉高出て信州大?」と言われまくり、かなりのコンプレックスになっていました。今となっては笑い話ですが。(^^;;;
理学部物理学科に所属し、4年間長野県松本市で夏はサッカー、冬はスキー、たまに勉強(汗)という健康的な生活を送りました。ちょうど映画「私をスキーに連れてって」が流行った頃でスキー場はどこも激混みでした。
サッカーは中山選手(筑波)や井原選手(筑波)、テレビでおなじみの中西選手(同志社)と同世代で全国大会のパンフレットに一緒に写真が載っていたりします。
教職課程で4年生の時に教育実習のため母校の幕張中学校でお世話になりました。中学校理科と高校物理の教員免許を取得しました。
X68000シリーズの後継機を開発する気満々でシャープ株式会社への就職を決めました。
X68000シリーズ後継機開発の夢を実現すべく入社しましたが、入社当時既に開発部隊は縮小され、その後は凍結・中止となり残念ながら夢は叶いませんでした。しかし、元開発部隊の方々とは在職期間を通じて仲良くさせていただきました。
入社後最初の業務はLSIの設計でした。当時は先端技術だったVHDLで記述して回路を論理合成しVerilogを用いたシミュレーションでLSI開発を行なっていました。
その後、テレビ放送のデジタル化に伴ってソフトウェア開発に移行しました。主な開発成果は以下の通りです。
i.LINKの国際標準化団体である1394TAの会議(全て英語です)に参加してi.LINKが各社のAV機器に採用されるための活動を積極的に行ないました。
WGリーダーとして8つの仕様をまとめ、国際規格として承認されています。こちらでその内の1つをご覧いただく事が出来ます。
日本での開催を主宰するなど地道な活動が認められて、ソニーやパナソニックといった名だたる会社も出席している場でまず最初に「シャープさんはどう考えていますか?」と訊いていただけるようになりました。
これらの規格はシャープだけでなく国内メーカー各社のi.LINK端子搭載テレビに採用されています。
もちろんシャープが2004年8月に発売したGD1シリーズ~2008年10月発売のXS1シリーズでは規格に準拠したソフトウェア開発を主導し、発売期間を通じて1度もバグによる不具合を出していない堅実なプログラム開発が自慢でした。
上記i.LINKの著作権保護もDTCPを使っていたのですが、今回は自分でソフトウェアを開発しました。仕様設計までを行ない、プログラミングは社外に出せない部分を除いて外注に任せました。
また、DTCPの規格管理を行なっているDTLAとの交渉(もちろん全て英語です)の窓口を務め、契約関連から鍵の購入、社内関連部門への規格のレクチャまで一手に行なっていました。
さらに、AQUOSでハードディスク録画したコンテンツをレコーダーにダビングする機能を企画立案して製品への搭載を提案し、採用後はソフトウェア開発を担当しました。
これらの機能は2010年5月に発売されたDX3シリーズ以降のDLNA動画再生対応モデル(ダビングは2011年発売のL5シリーズから)に搭載されています。
※こちらを見ていただくとどのモデルが対応しているかが解かりやすいです。ひょっとしたらXL10以降は機能が増えているのでソフトウェアが入れ替わっている可能性はあります。
自分のやりたい事と会社の向かっている方向のずれが大きくなってしまい、退職して新たな道を探すことにしました。